紀伊の音

ADHDクリエイター紀伊原ひろの器用貧乏なブログ

4年前に死にきれずに始めた創作活動の振り返り33 - 音楽から撤退した2022年冬

パート32

金を稼がなくてはいけなくなったオレは稼げないし稼ぐ気もほとんどなかった音楽配信をいったん卒業した。

 

13歳でギターを独学ではじめ、19歳から作曲をはじめてミュージシャンを目指していたが発達障害でコミュ障なオレは人が苦手すぎてバンドも組めずライブも一度も出来ないまま気が狂って自傷行為をするようになり、首を吊ったが失敗して24歳で引きこもりになり、その後もしばらく作曲を続けるも次第に音楽もどうでもよくなって37歳で再び死のうとしたが死ねないから今まで作ってきた曲をちゃんと形にして残してから死のうと思い立ち、レコーディングやミキシングのスキルも全くない状態で2019年から約4年間にわたって音楽制作と配信をし、SNS戦略を含めいろいろ試行錯誤しながらやってきたが結果は惨敗だった。

 

主な敗因としては、

 

 1. 人間が怖くてSNSでも積極的になれなかったこと

 2. 日本の「てみた」文化が嫌いで、海外に行ったこともない日本人なのに草間彌生に憧れて中途半端に海外市場をターゲットにしていたこと

 3. 音楽以外にもいろいろやろうとしてしまったこと

 4. 詰めが甘いADHDのくせに中途半端にクオリティの高さや凝ったことを追求してしまったこと

 

が挙げられる。

 

やはり1が最大の敗戦要因で、人に対して売り込まなくてはいけないのに人を避けてたら結果を出せるわけもなく、最初から敗戦が決定していたようなものだった。人と関わりたいけど人もネットも怖い、人間関係めんどくさいというジレンマを常に抱えていた。

 

SNSで大量にイイネが付いたり拡散されている人間に嫉妬しながらも、いざ自分の投稿が拡散されると途端に怖くなってあの世に逃げ出したくなるという矛盾があった。インスタはともかく、炎上ニュースが後を絶たないTwitterは怖すぎて、傷付きやすすぎるオレには無理だった。20代の頃ならTwitterでいきがっていただろうが今の自分には無理だった。何度か、拡散性のないインスタからTwitterに移行しようとしたがそもそもその拡散性が怖かった。

 

露出や交流が少なければ支持なんて得られるわけもないと考えてはいたが、バンクシーみたいに姿を現さずにコソコソしててもそれが逆に謎めいた魅力となって人気を得た例もあるし、そんなにSNSで積極的に人と交流しなくてもいけるんじゃないかという淡い期待があった。

 

実際、フォロワーが全然いなくても人々を興奮させるような投稿をちょっと投稿しただけで一気に拡散された事例なんてたくさんあるし、オレもそういう他力本願な期待を持っていたが、それなりの独創性とクオリティがあるだけのオレの音楽作品ではダメだった。

 

有名になったアーティストにも、一つの刺激的な作品や投稿が拡散されて有名になった「一発屋」的なパターンもあれば、作品は特にアドレナリンを分泌させるような刺激的な物ではなく「普通にいい曲」しかないがSNSやライブで地道にファンを増やしていくパターンもあるが、オレの作品では後者の手法を取らないとダメだった。

 

一気に拡散されるにはエロや派手なパフォーマンス、物議を醸すような投稿などで人々の攻撃性や性欲などを誘発させる必要があった。環境活動家のグレタ・トゥーンベリなんかにしても結局は「自分の欲求不満を社会問題に転嫁して鬱憤を晴らしたい」という人間の攻撃性を刺激して人気を得た。

 

オレも気が狂ったパフォーマンスを投稿する妄想に耽っていたが、20代の頃ならともかくもう勢いも無くなって過去の行動に対する罪悪感もあったりネットも怖くなってしまった今のオレにはもうそんな元気はなかった。

 

フォロワーがたくさんいる人とコラボをする作戦も考えたが、人が苦手すぎたり収益分配とかもめんどくさくて出来なかった。

 

2の海外市場狙いに関しては完全な敗北要因とは思わないし後悔もしていない。最初は日本語の歌と投稿で日本のフォロワーを増やしてから海外を狙っていくなどの計画的な戦略を取っていればもう少しいい結果を出せていただろうが、とにかく「てみた」もアニメも好きじゃなく、息苦しくて褒めるのも下手で堅苦しい敬語も苦手で日本社会から逃亡したかったオレとしては仕方がなかった。日本語のリズム感が口に合わず、英語の歌を聴きながら育ったオレに選択の余地はなかった。

 

結果として、海外市場を狙って差別を受け、「やっぱり日本人女性最高ですわい。白人は写真写りがいいだけで全員ワキガ」と言って泣きながら日本に帰還し、日本語の歌を作るという「逆輸入戦略」を取ることになったが、後悔はしていない。

 

弾いてみた」「歌ってみた」のハッシュタグを使えばもっとリーチも伸ばせただろうが、「てみた」とかいう死語が嫌い(流行り言葉は流行り出した瞬間に死語になる)なオレとしては後悔はしていない。

 

YouTube広告も世界中に配信する設定にしていたが海外はブラジルやフィリピン、台湾など親日な人間が多そうな地域に限定しておけばよかったのかもしれない。

 

3の音楽以外にいろいろやろうとしたことについては、ADHDのオレにはどうしようもない部分もあった。それでも最初はTシャツショップの運営と並行してさらに哲学系のブログやYouTubeもやろうとしたりビジネスアイデアを売ろうとしたりして収拾がつかず、全てが中途半端だったりして、その後少しずつやることを絞っていった。

 

音楽は「この世に作品を残すこと」が主な目的で、稼ぐことはほとんど期待していなかった(それでも月数千円くらいは稼げるようにはなりたかったがため、他のことで稼ぐ必要があったが、もう普通の仕事はしたくなかったオレはデザインに手を出した。

 

それ自体に後悔は無いが、人と関わりたくなかったオレはデザインの仕事を直接受注するという方向には行かず、ネットショップなんかやり始めてしまい、その後ショップを成長させるのが主な目的になってしまい、死ぬ前に音楽作品を残したいという当初の目標から逸れてしまったことには少し後悔している。ショップも数回売り上げを上げた程度で撤退した。だがショップはデザインの仕事を受注する時に見せる履歴書(ポートフォリオ)として使っているから完全に無駄にはならなかった。

 

自分の曲もやりつつ、スキルを応用して作曲の仕事を受注することも考えたが、どっちにしろ実績が必要で、今でこそYouTube Spotifyを履歴書代わりに出来るが、作品が全然無かった当初はそれも無理だから結局は他のことで稼ぎながら音楽配信をやる必要があった。クラウドソーシングで検索しても作曲よりもデザイン系のほうが圧倒的に件数も多かった。

 

ベクター系デザインのスキルを音楽のアートワークや動画、プロフアイコンやチャンネル画像にも応用出来たからデザインに手を出したこと自体に後悔はない。

 

いっそのことやりたいことの全てを音楽作品に詰め込んで音楽に専念しよう(ビジネスアイデアを音楽動画にしてしまう等なんてことも考えた時期もあったが、かえって周りくどくて凝りすぎて時間がかかるため却下した。

 

2021年からは音楽に専念することにしたが、4の「ADHDのくせに中途半端にクオリティの高さや凝ったことを追求してしまったこと」により制作に時間をかけすぎてしまい、作品数も増やせず、SNSに費やす時間もなくなってしまった。それでもプレイリストキュレーターに採用されるようなクオリティの高い物が作れていれば良かったかもしれないがクオリティも中途半端になってしまい、SubmitHubやキュレーションメディアに曲を送ってもほとんど採用されることはなかった。

 

ひとりで全部やらずにプロのエンジニアやプロデューサーに依頼すればクオリティの高い作品を作れるが、人と関わるための人格がまともに形成されなかった解離性障害のオレは人が怖すぎて恥ずかしすぎて無理だった。

 

2022年の後半になってアコギを使ったシンプルな弾き語り系の路線に変えようとして曲もいくつか作ったがもう音楽をいったん卒業しなくてはいけなくなり、本格的に死にたくなったので断念した。デモだけでも残したいとは思っている。

 

以上の要因によって4年間に及ぶ音楽活動は、

 YouTubeチャンネル登録者180(広告に6万も使ってこれだけ)

 Spotifyリスナー25

 ・収益1,000円くらい(ほぼ自分自身による視聴)

 ・費用YouTubeとインスタ広告 65千、楽曲配信料 2万、スタジオ代 15千、その他製作のためのアプリ、機材代

 

という大赤字の完全敗北という結果に終わり、音楽を卒業することとなった。

 

オレが見た目のいい女だったら作曲なんかせずに他人が作った曲を演奏して # 弾いてみた のハッシュタグ付けるだけでもけっこうな収入を得られただろう。

 

もう生きていたくないので人生も卒業したいと思っている。

 

苦肉の策として自分の死後に投稿される動画を作り、一年後に予約投稿しておいた。それが発見されて少し話題になって自分の死後に少しでも評価してもらえることを願っている。

 

つづく

©Hiro Kinohara
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