紀伊の音

ADHDクリエイター紀伊原ひろの器用貧乏なブログ

4年前に死にきれずに始めた創作活動の振り返り⑩ 2020年夏のSNSと初売り上げ

前回書いた通り、2020年前半は作品を完成させることよりもマーケティング戦略などについて考えたりSNSに費やす時間が多かった。それ以前は音楽・デザイン共に作品が少なかったため作品作りに時間を割いていた。

 

当時はデザイン用にPinterestInstagramFacebook、音楽用に別アカウントのInstagram Facebookをやっていて、昼飯時には音楽アカウント、夜はデザインのほうでフォロワーを増やすための活動をしていた。Facebookページとインスタをリンクさせていた。

 

Facebookグループでは音楽とデザインのグループだけでなく、ニュース系や、花などの写真系のグループ、日本に住んでたり関心を持っている外国人が集まる日本関連のグループ、好きな映画や音楽のグループなんかに参加していて、そこでコメントしたり投稿をしてアピールし、自分のプロフィールやページに来てもらってそこからYouTube Spotifyにも来てもらおうという間接的な戦略を取っていたが、誰もが自分のことで精一杯で、よほど注目を浴びるような投稿でもしない限りはわざわざ他人のページに訪れないのでほとんど効果は得られなかった。

 

ときどきイイネが多めに付いたりシェアされるような投稿(主にパロディやネタ系の画像)をしてフォロワーが増えたりする効果はあったが、それでもそこからさらにYouTubeやショップにまで来てもらうなんてことは皆無だった。

 

以前の記事で挙げたように時事的なトピックを扱った作品もあったため、ニュース系のグループやページを見て、自分の作品のテーマと被るニュース投稿があったらすかさずコメント欄で自分の作品を宣伝するなんてこともやっていたが、そういう場での宣伝行為は煙たがられるだけで逆効果だった。

 

Facebookには自分のFacebookページにイイネをしてもらうように友達に催促する機能があるが、当初は遠慮してその機能をほとんど使っていなかった。変に生真面目なところのあるオレは、デザイン系のページへのイイネを、デザイン系とは別のつながりの友達に催促するのをためらっていた。

 

SNSではとにかく自分から積極的にアプローチしなくてはいけないのだが、人が苦手すぎるオレには出来なかった。当初はハッシュタグをつけて投稿するだけという受け身な姿勢だった。

 

そこで、もっと積極的にフォローしたりイイネしたりする作業に時間を割くことにし、その甲斐あって、少しはフォロワーも伸びていった(といっても300人くらいだが)

 

この夏はワキの下にバイ菌に起因する腫瘍が出来てしまい、摘出手術をしたのだが、手術後の縫い痕の画像をFacebookに投稿しても特に心配とかはされず、「普通は毛を剃って手術を行う」みたいな知識ひけらかしコメントをされたりしてSNSがウザくなったり早く人類滅亡しねえかなと思ったりしていた。

 

前回書いたが、2020年夏からギタープレイ動画をやることになり、アパートは楽器禁止なため公園などで即興で作った曲やギターリフの演奏動画をインスタに投稿し始めた。

 

インスタにはギター関連のハッシュタグがいっぱいあってフォロワー以外にもリーチしやすかったため、ギター動画の反響はそこそこ良かった。とはいえ動画の内容もちゃんと見てない、自己宣伝目的のイイネが大半だったが、まともなコメントもけっこう得られた。それで調子に乗って同じような未完成の即興プレイ動画ばっかりやるようになり、作品を一つずつちゃんとした形に仕上げるのをおろそかにしていた。

 

同様に、本来の目的である作品の宣伝とは別にストーリーズや(音楽やデザインとは関係のない)Facebookグループに投稿する為の写真や動画を撮ったりネタを考えたりして、すぐに本来の目的から脱線してしまうというADHDの悪い癖がいつもながら出てしまった。

 

いろいろやっていたがSNSに割いた労力や時間に釣り合うような結果は得られなかった。しかし、7月も末になるとついにTシャツが1枚売れた。半年前に作った、時期外れのカーリングデザイン(パート④参照)が忘れた頃になって売れた。利益はたったの2ドルだったが嬉しかった。

Tee Publicからのメール

 

朝起きてすぐこのメールを見た時、どうせまたいつものニュースレターだろうと思って眺めてたため、売上げの通知だと分かった時にはマンガなんかでよく描かれるように目をこすって二度見した。確信に変わると飛び跳ねて喜び、(監視カメラと間違えられやすい)火災報知器に向かってピースして子供のようにはしゃいだ。

 

2018年の春からずっと家賃光熱費を母に仕送りしてもらっていて、早く稼がなくてはと焦り、仕事するよう催促されるたびに「もう少しで稼げるようになる」「稼ごうと思えばいくらでも稼げる。」と言い逃れをしてきたが、2年以上経ってようやく収入を報告することが出来た。

 

つづく

©Hiro Kinohara
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